浅草の浅草寺は寺院なのに神社の様な気がします。人々は何を目的にお参りしているのだろう?
私は寺院は亡くなった人を弔うところ、神社は今生きている人の願い事を祈願する所。きっちり分かれていると考えています。
しかしながら、浅草寺にお参りしている膨大な観光客は死者を弔っているのだろうか? 自分の願望を祈願しているのではないだろうか? と素朴な疑問を感じました。
日本の宗教感は何も制約が無くとても自由なものですから、神社も寺院も特に区別する必要もない、死者を弔おうが願望を祈念しようが気にしていないのかもしれません。
宗教に何もとらわれずに生活できる自由な日本社会はとても住みやすいと思います。
観光客がキリスト教であろうが儒教であろうがイスラム教であろうが、お賽銭を上げてお参りすることに違和感はありません。
宗教にのめり込まないと平穏な生活が営めない国家、厳しい戒律を強制される国家、外国の観光客は日本は無信教の国民が安全に暮らしていることをどう感じているのでしょうかね。
日本の神社仏閣は経営最優先でとにかく収入を確保すること、お賽銭、祈祷と商売のひとつの様な感じです。神社仏閣業ですね。だから制約なんて何もないように感じます。
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